書家(書道家) 祥洲の墨の世界 _ 祥洲語録

祥洲語録

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ピアノは鍵盤を押し込めば音は鳴ります。
しかしそれだけで素晴らしい演奏が出来るわけではありません。
ピアニストになるためにはどれくらい大変な練習が必要か…

書道ではどうなのでしょう。
誰でも筆を手にすれば何かが書けます。
学校教育でも学びます。
少し練習すれば、何となく書けるような気分にもなります。
しかしそれで書家なのでしょうか。

伝統書が書けない書家
実用書が書けない書家

いろんなカタチがあってもいいとは思いますが
しかし…

自らの表現は、伝統を学ぶ中で模索し続けるもの。

現代の書はあくまでも伝統書の延長線上に存在するもの。

人柄を感じるような書、個性溢れる書、それは素晴らしい。
だがあなたがもし書を志す人ならば……
自分らしく書いたと言う前に、
これが自分の個性だと言う前に、
苦しいほど、逃げ出したいほど、古典を学びなさい。

書き出したばかりなのに紙をくしゃくしゃにして捨ててしまう。
失敗したってまだまだ紙の白い部分は残っているのに。
そんな反古紙の山を築いて悦に入るのはどうかと思います。
「 紙 の 命 は 一 度 限 り 」
紙の命を粗末にしてはいけません。

書に向かうということは一生をかけて古典を学び続けることです。
そしてどんな時も古典に立ち戻れば、
真摯に謙虚に古典に問いかければ、
独りよがりで低俗な表現にはなりません。

くら古典を学び、
いくら似せて書くことが出来るようになっても、
それを超えることは出来ません。
しかしそこから新たな書表現を生み出すことは出来ます。
だから書する限り、日々、古典を学ぶ必要があるのです。

書における、用と美。
美ばかり追いかけて、用を忘れる無かれ。
生活に根付いた実用書を軽視してはいけません。 

日々の練習や古典の学習不足による自分の技術の未熟さを
「稚拙さ」と混同しないことです。

古典と呼ばれるものは、それが生まれ出た時代にとってみれば
それまでの時代になかった新しい要素をもっているものなのです。
言い換えればそれは当時の革新的な書だったのです。
そして多くの人々に連綿と受け継がれ、
今日から見れば、古典と呼ばれるようになったのです。
伝統は常に新しい感性を取り込みながら脈々と受け継がれるもの。
スタイルだけの伝承は形骸化するだけなのです。

伝統を継承することなく創造はありません。
そして創造することなく伝統の継承はありません。

書における新たな創造は伝統の全否定ではありません。
伝統の精神性を自己内部に包容し、その上で新たな美を追究するのです。

書は文字性という束縛を十分認識して、あえて文字を書くものです。
その上でそれらの束縛にとらわれない自分の内面の表出を目指すのです。

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- 雑 感 -

ろくに古典も学ばず自分勝手に書いたもの・・・
それも「書」なのだろうか。
私にはただ筆で書いてあるだけにしか見えません。
昨今、巷に氾濫する"書らしきもの"の低俗さにうんざりです。

どのように書こうか、と考えることは必要です。
しかしもっと大切なのは・・・
多くの漢字や言葉がある中で、何故、それを書くのかです。

字面(じづら)が良い。書きやすそう。
そんな理由でモチーフにしてはいけません。

また今回も漢詩や名言が集められた本をめくって
書く言葉を探すのでしょうか。
日頃から心に響いた言葉を書き留めておきなさい。

展覧会があるから作品を書くのですか。
制作が先にあるべきです。
日々、制作。

実際に書するまでに
何故、この言葉を書くのか、に始まり、
適した筆墨硯紙を選び出し、
仕上げの体裁までを考えなさい。

例えば筆は何種類あるのでしょう。
道具というものはそれに適した使い方があるから多種なのです。
文房四寳…筆墨硯紙に関してもっと学びなさい。

羊毛の筆は書きにくいから使わないという。
もともと筆が悪いのかもしれませんが
大抵は練習が足らないから使えなくて書きにくいのです。

文字は多くの人々が共通して認識できるもの。
人々が認識できないような極端な造形を加えたなら
それは文字ではありません。

よく見聞きするセリフ。
「書は技術ではなく、心が大切」
「気持ちを込めて書く」etc
当たり前のことです。
しかしそれを伝統書が書けない理由にしてはいけません。

練習、練習、練習。
謙虚に、そして真摯に、古典を学び続ける中でしか
見えてこないものがあります。

「線質」を置き去りにして
どうしても造形にばかり気をとられる。
根っこが育たないのに、枝振りだけを見ているのと同じ。
そのうち枯れてしまいます。

書は古典やお手本をただ真似るのではなく、自ら考え、学ぶのです。

10枚書く時間があれば、5枚書いて、
残りの5枚を書く時間は、考える時間に使いなさい。

素晴らしい作品をボツにしてしまう方があります。
きっと自分ではまだ気づけていない新たな美の世界だからです。
自分で良いと思うのは既に自分の美の範疇に入っているもの。
これでいいのか迷ったりわからない時はそれは大切に残しなさい。

筆を手にしながら紙を出したり何かをするのはいけません。
筆は、書くその時に手にしなさい。

書き出そうとして、もし迷ったら筆を一度置きなさい。
仕切り直しするのです。

書く、ということは、
紙の上で筆を走らせている時だけではありません。
集中し、筆を手にとって書き始め、
そして書き終えて筆を置くまでと考えなさい。

「書法」を学ぶ。
数年で身につくものと考える人もあり、
何十年も取り組んでいてまだまだと考える人もあり・・・。

人がいくら綺麗な衣装で着飾っても、所詮、見た目だけのこと。
「書」も同じ。
文字の外形だけを美しくしようとするものではありません。

どんなに凄い書を書いた人でも初心者だった頃があるものです。
あきらめず、続ける事が大切です。

練習をあせってはいけません。
そして練習をさぼってもいけません。

児童の書写手本、一般的な実用書、そして漢字や仮名の古典を
まともに書けなくても書家になれるという現代を
喜んでいいのかどうか。

伝統書を基盤に、純粋に芸術としての現代の書を探求する
そんな書家がもっといればいいのに、と思う。
古くさい考えかもしれませんが、ね。

以上は、中国の書法専門誌「書法賞評」の「現代日本の書」取材での発言を中心に、随時、加筆再構成しております。


書家は文字を書く。
画家は絵を描く。
写真家は写真を撮る。
ならば書家が絵を描けば、なんと呼ぶ?
写真を撮れば、なんと呼ぶ?
私はカテゴリーになんか縛られたくない。    祥洲/Shoshu


伝統を継承することなく創造はありません。
そして創造することなく伝統の継承はありません。
※本サイト内のこちら(最下段)にて「伝統・継承・創造」をテーマにした映像作品を公開中です。

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Doticon_grn_Right.png祥洲 先鋒墨美展(中国)に関連して

黒龍江国際文化芸術の冬
日本現代芸術家 祥洲 先鋒墨美展 概要

2008年、中国・日本・韓国・ロシア・北アイルランド5カ国共催による
「黒龍江国際文化芸術の冬 / 日本現代芸術家 祥洲 先鋒墨美」が開催されました。
これは、初の美術館企画個展「日本現代芸術家 祥洲 幽玄なる白黒の美」展
(2001年、中国黒龍江省美術館)に次ぐ、中国での大規模展です。

ここでは、書の母なる国・中国での祥洲の活動資料として、上記「先鋒墨美展」での
展覧会図録掲載文、また芸術専門誌「文藝界」での論評をご紹介いたします。

黒龍江国際文化芸術之冬 日本現代芸術家 祥洲 先鋒墨美展
2008.2.25-3.5 中国哈爾濱市123展館
(開催関係機関)
黒龍江国際文化芸術之冬組織委員会・黒龍江省美術家協会・黒龍江省書法家協会・
哈爾浜市美術家協会・哈爾濱市書法家協会・123展館・黒龍江美術出版社(展覧会図録)

祥洲祥洲

Doticon_grn_Right.png図録収録文① 日本国中華大使館 祝辞

日本国中華大使館特命全権大使(2008年当時) 宮本雄二氏

 福田祥洲氏の《日本現代先鋒墨美展》が、第三回“黒龍江国際文化芸術の冬”で
開催されるにあたり、一言ご挨拶申し上げます。
 福田祥洲氏は、日本と書道発祥の地である中国の書道について深く研究されています。
また、彼の独創的な数多くの作品は、国内外から高く評価されています。
これらの優れた作品が、書道発祥の地-中国で多くの人々に展示されることは、
誠に喜ばしいことです。

 一昨年には安倍前総理が訪中、昨年の春には温家宝総理が訪日し、
さらには昨年の福田総理の訪中を経て、日中関係は“新時代の新しい日中関係”に
向かって着実に進んでいます。
 日中国交正常化35周年であった昨年、両国は“日中文化体育交流年”に関連する
一連のイベントを開催し、双方の相互理解と相互交流を大きく促進しました。
日中平和友好条約締結30周年にあたる今年、日中両国政府はこの1年を
“日中青少年友好交流年”と決め、様々な交流活動を開催する予定です。

 福田祥洲氏の作品展が、この記念すべき年に黒龍江省で開催されることは、
日中文化交流と国民交流を深めるために大変有意義なことと思います。

 福田祥洲氏が芸術に対する情熱と追求から生み出した、生命力あふれるこの作品群は、
寒さの厳しい北国に、必ずや暖かい春の息吹をもたらすことができると私は信じております。

今回の作品展が立派に成功を収められますことを祈念いたします。

Doticon_grn_Right.png図録収録文② 書道編集者 宗像克元 祝辞

伝統の上に成り立つ「墨象」の精華


 ジャンルを問わず本物の芸術作品と出会うのは至難の業である。
特に現代美術における出会いの難しさは、改めて論ずる必要はない。
しかし、それがどんなに現代的な意匠をまとった作品であれ「伝統」という関門
くぐり抜けた作品でなければ芸術の名を冠する資格はない。ピカソのキュビズム、
マチスのフォービズムにしても、確固たる西洋美術史の伝統に真っ向から挑戦し、
乗り越えることにより初めてその世界が確立された。

 祥洲の書作品をジャンル分けすれば、伝統書に対する現代書に位置づけられる。
しかしその全く独自の「墨象」作品の背景には、ピカソやマチス同様、
書の古典に対する挑戦と受容が、脈々と息づいている。

 日本の「現代書の父」と敬慕される比田井天来。戦後華々しく開花した前衛書(墨象)の
上田桑鳩、近代詩文書の金子鴎亭、漢字の持つ象形性を独自の淡墨表現にまで高めた
少字数書の手島右卿。彼らは皆、天来の高弟であった。そして、もう一人、墨のマチエール
芸術表現にまで昇華した天来の息子、比田井南谷の業績を我々はもっと高く評価すべきである。
そして彼らの書作の根幹には「古典を師とする」天来の教えが常に生き続けていた。
私見ながら、祥洲もまた、「古典を師とする」天来の教えを忠実に継承する一方、
南谷の果たした墨のマチエールを、現代美術としての視点から継承し、
さらに発展させていった開拓者であると、受け止めている。

 メルセデス・ベンツのコマーシャル…その背景に立ち上がる祥洲「墨象」は、
世界的な高級車すらも一体化して、今までどこにも存在しなかった現代のアートシーンを
現出している。
さらに、世界をつなぐインターネットは、祥洲の「墨象」世界を、リアルタイムに共有化
することを可能にした。

「墨魂」…今回初めて発表されるこの美しい響きを持つ一群の作品。
鍛え抜かれた書線から派生した千変万化する墨のマチエールは、国の大地に
くっきりとその足跡を刻み込み、世界に向かって、また、新たな発信を行うことだろう。

執筆 : 宗像克元氏 略歴
1950年東京生まれ。明治大学文学部東洋史学科卒。
書道雑誌「墨」、「書に遊ぶ」編集長歴任。
美術年鑑社刊『書-戦後六十年の軌跡』責任編集。
同旬刊「新美術新聞」編集部・書道担当。

Doticon_grn_Right.png哈爾浜文学芸術評論学会「文藝界」論評

域外水墨の有益な啓示「日本水墨芸術新世代―祥洲」
哈爾浜文学芸術評論学会「文藝界」副編集長  劉 玉龍

書家,祥洲

 2008年度、ハルビンで行われた芸術展の中で、画家「斉鵬」の展覧会以外に
もうひとつ、2月26日から開催された「祥洲・先鋒美展」が注目を集めた。
 本展では、祥洲が自ら製作した「祥洲自家製墨」を使って、奥深水墨の新た
世界を表現しており、一部の書道の要素を取り入れ、偶然的な趣き、構造効果、
水墨のグラデーションを作り出し、古典伝統書道を継承すると同時に、
新しい現にチャレンジした。

21世紀に入ってから、中国では書道学者による現代と伝統の論争が始まり、
書家たちは肩書きを争い、商人はそれを見越して投機を行っている。
一方、我々の隣国日本は依然として真剣に師匠の字を学んでいる。
日本の最初の水墨意象は新意に富み、手島右卿、上田桑鳩、津金鶴仙などの大家が現れた。
特に井上有一は37年間、清貧に甘んじ、ひたすら純粋清明な孤独の境地を求めた。
彼は人々代書道の聖人と言われている。井上の書は1990年代中国の現代書道の模索に
大きな影響を及ぼした。
しかし「脱亜入欧」の思想の影響で、日本の書道創作は書道の本位から逸脱し始め、
いわゆる欧米の純芸術を実践するものが多くなった。
しかしその新鮮さが失われると、多くの流派において表現形式の不足が露呈し始めた。

 伝統書道において、師匠からの継承を過度に強調し、また一人の師匠にだけ学ぶ家元体制は、
書道団体内における類似作品の大量生産をもたらしている。
これは芸術の法則に反するものである。
伝統的な技法に優れた書道作品はほとんどなくなり、書は芸術の趣きがなく、
高齢者たちが勝手に遊ぶものとなっている。

 日本の有識者は以前からこのような弊害は、必ず書道の芸術としての硬化を招くと
認識しており、また自らの師匠の特色を真似ることのみに甘んぜず、外に飛び出し、
もっと多くの芸術を学んで取り入れていきたいとの希望を持つ、鋭い感性の書家たちが現れた。
かし日本では、このような探索精神は推奨されるどころか、かえって批判されることになる。
とはいえ、一部の勇気と実力がある書達は、たとえ大きな圧力を受けても、
思想と体制の防御線を突破し、自らの道を歩み出している。
彼たちは早くに自らの新天地で素晴らしい成果を挙げ、同人達の賞賛を得ているのである。
祥洲もこのような勇気ある新進書家の一人である。

 そして今の祥洲は、日本現代書道界において最も代表的な芸術家の一人となった。
彼の漢字書道は六朝と顔真卿を学び、雄大かつダイナミックな勢いを持つ。
祥洲が独創した墨は、釜の中で陶器を焼くときに発生するような変化を産む。
の痕跡は大理石の模様を呈し、変化に富み、茫漠とした感じをなしている。(中略)

 今回の展覧会で発表された現代の新意が溢れる「墨象」精華作品は、
書道のふるさと中国に清新な風をもたらしてくれた。
そして祥洲・先鋒墨美展」は書道のふるさと中国にとっての報恩だと思われている。

 展覧会を見たある書家は次のように感想を語った。
「東方の書道は同じ木に異なる葉が生えるものではなく、同じ山に異なる木が生えるものである。
何千年もの歴史がある書道は、間違いなく新しい芸術の未来を作り上げる」と。

「文藝界」79期より 日本語訳 : 高潤生

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